スポーツを観て感動し、涙さえ流した経験のあるファンの方は多いはずだ。スキージャンプの原田雅彦選手が、リレハンメル五輪での失速を乗り越えて長野五輪で大ジャンプを見せたとき。巨人の吉村選手や近鉄の盛田投手が、大復活を遂げてグラウンドに帰ってきたとき・・・。
だが、「逆境や不幸を乗り越えた」などといった背景知識なしに、純粋にパフォーマンスだけを観て感動し涙を流した経験は、そうは無いのではなかろうか。
サラエボ冬季五輪(1984年)を観た多くのスポーツファンは、そんな経験をしている。フィギュアスケートのアイスダンスで、イギリスのジェーン・トービルとクリストファー・ディーンの2人が、モーリス・ラベルの名曲「ボレロ」に乗せて演じた演技である。
最終滑走でなかったにもかかわらず、芸術点で9人のジャッジ全員が「6.0」(満点)を出した。あとにも先にも、五輪フィギュアスケートの歴史のなかで、唯一の瞬間である。
彼らのこの演技(もちろん金メダルを獲得した)を、夏冬通して「五輪で最も感動した場面」として挙げるひとも多い。この演技を観てフィギュアスケートのファンになったというひとも多く、感動して涙が止まらなかったと言うファンも少なくない。
昨年12月の全日本フィギュア選手権を中継したフジテレビが、この「ボレロ」をテーマ曲に使ったのは、もちろんこの伝説があるからだ。最近になってアメリカのミシェル・クワン選手が「ボレロ」を選曲したプログラムを披露するまで、世界中のスケーター達が「ボレロ」で演技することを避けてきた。それほどまでに、フィギュアスケート界では「伝説中の伝説」なのである。
さて、トービルとディーンの「ボレロ」がこれほどまで大きな感動を呼び、20年も経った現在まで語り継がれる伝説の演技となったのは、一体なぜだったのか。その大きな理由の1つは、実はこの演技が非常に型破りなものであったことである。
まず、それまで社交ダンス的な意味合いが濃かったアイスダンスという種目に、「物語性」をドップリ詰めこんだ。
実はトービルとディーンの2人も、サラエボ五輪の前年である1983年の世界選手権で、コミカルな演技で世界選手権初の「ジャッジ全員6点満点」(芸術点)を達成していた(彼らのファンの中には、ボレロ以前の演技が好きという人も少なくない)。
その翌年、サラエボ五輪で彼らが演じたのは、「叶わぬ恋に苦しみながら旅をつづけ、苦しみを癒す唯一の方法として火口に身を投げてしまう男女」の物語だった。
通常、ラストは立ったままで両手を広げて高く上げたポーズなどで演技を終了するが、彼らは身を投げて息絶えた2人を表現するため、2人が絡まったまま氷上に倒れこむという演技でラストを演出。感動の物語を強烈に印象づけた。
彼らのこの演技の後、このようなエンディングは「デス・オン・アイス」(氷上の死)と呼ばれ、この後に物語性が高くなっていったアイスダンスの演技でのトレンドともなった。
他にも、大胆で独創的な工夫があった。
ラべルの「ボレロ」と言えば、延々と同じリズムで同じメロディーが繰り返される曲として有名。そんなリズムも曲調も全く変化のない1曲だけで、1つのプログラムを滑り通した点も異例だった。世界選手権を3連覇し、ネームバリューが絶大だった彼らだからこそできた、大胆な挑戦だったのだ。
そして、あまり知られていないのが、プログラムの出だしの工夫である。当時のルールでは、演技時間が4分を越えてはならないと規定されていた。しかしルールブックの記載ぶりが「スケーターが滑走を始めてから」となっていることに目をつけ、オープニングで18秒間も「スケートで滑らずに、氷上に膝をついたまま」演技をして、全体の演技時間4分以上に延ばしたのである。
こういった一風変わった独特の演技が、また非常に美しく、観客の心をつかんだのである。
こういった歴史を経て、公平さを期すためにフィギュアスケートのルールも厳格になり、そのなかで選手達が最大限の工夫を凝らしてきた。そうして、感動の演技はいつでも、独創性のなかに誕生してきた。しかし近年は、トリプルアクセルを跳ぶか、4回転を跳ぶか、そういったところに競技の注目が集まりがちだ。
だが、コアなフィギュアスケートファンが本当に期待しているものは、別のところにある。独創的な演技の工夫、そこに込められた強いメッセージ、そしてそこから生まれる「感動の演技」である。
最近では、フィリップ・キャンデロロ選手(フランス)が見せてくれた「ダルタニアン」の演技などがそれに近かったが、トービルとディーンが見せてくれたような独創性に匹敵する感動には、もう20年も出会えていない。
新採点システムになり、ますます選手達が「やらなければならない演技」が増え、独創性を演技に織り込む余地が減っている。多くのフィギュアスケートファンが待っている「感動の演技の誕生」は、トリノ五輪はおろか、まだまだ相当先の話になりそうだ。いや、それどころか――
JunYa Inami
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