2006 / 09 / 18
  「見逃しの三振」に倒れた打者を責めないで

ロ・アマ問わず、一般に「見逃しの三振」というのは野球において最も恥ずべき失態と考えられている。ファンも指導者も、何もせずにスゴスゴとベンチに帰ってくる打者を、どうしても責めたくなるようだ。

特に日本高校野球連盟の脇村会長は、見逃しの三振が非常にお嫌いらしい。たとえ晴れの甲子園の開会式や閉会式の挨拶でも、「見逃しの三振はするな」と選手達に念を押さずにはおられない。’03年夏の大会の閉会式では、「三振の30%が見逃しでした。なぜ手が出なかったのか反省してください」と、ご丁寧な統計を突きつけて選手にダメ出ししたほどである。

ご記憶のとおり、今夏の甲子園は乱打戦が多かったのだが、全国高校軟式野球選手権は、対照的に投手戦が多かった。15試合中11試合が完封試合で、ノーヒットノーランも2試合あった「投手優位」な大会となったのである。この軟式野球選手権閉会式の挨拶で、脇村会長が「見逃しの三振が多い。見逃しの三振だけはしないようにしてください」と力説したときには、あまりの予想どおりっぷりに思わず噴き出しそうになってしまった。

村会長はどうお考えかは知らないが、「見逃しの三振」をことさらに責めるのは、やっぱり絶対にオカシイ。まず、「見逃し」は、決して怠慢プレーではない。打者は必ず最善を尽くしているのだ。きわどいボールを「見逃した」ということは、打者の懸命な判断の結果である。「手が出なかった」のだとしても、投手と打者の真剣勝負を投手が見事に制したという結果にすぎない。

私も中学の最後の試合で、追い込まれてカーブに手を出せず最後の打者になってしまった苦い思い出がある。だが、何回やり直してもあのカーブには手が出なかっただろうと今でも思うし、「見逃した」ということに後悔などない。たとえ「見逃し」であっても、全力プレーに変わりないからだ。

それに、難しい球を見逃して三振することと、難しい球に手を出して注文どおりに併殺打を打ってしまうことと、どちらが本当に責められるべきだろうか。2ストライクで、きわどいボールを見逃してボールと判定されたら「よく見ましたネェ」と賞賛する解説者に限って、きわどいボールを見逃して三振に倒れた打者には「追い込まれていたので手を出すべきでした」と批判する。言っていることがメチャクチャだ。

そもそも、外角低め一杯に絶妙な速球を投げ込まれて手が出なかったら、投手を称えるべきであって打者を責めるべきではない。サッカーでも、強烈なシュートを決められたゴールキーパーが一歩も反応できないシーンはよくあるが、だからと言ってキーパーを責めるのはナンセンスだろう。

手にとっては、空振りの三振より、見逃しの三振を奪うことの方が圧倒的に難しい。打者の予想以上の速球を投げ、打者のウラを書いた変化球を投げ、打者が手を出せないほど絶妙のコースに投げ込んだ、その投手を褒めよう。そして、ベストを尽くしながら、彼らの見事な投球の前に見逃しの三振に倒れた全ての打者に、私は惜しみない拍手を贈りたい。

「見逃しの三振」は、恥ずべきプレーではない。投手と打者、わずか0.5秒の真剣勝負という、野球ならではの、儚くもすがすがしい、感動的でさえある、勝負の結末のひとつなのである。

    稲見純也 JunYa Inami

<この記事は、06年8月22日発売『週刊漫画サンデー』に掲載された内容に加筆したものです>


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