今年は、日本を代表するサッカー選手・中田英寿や、プロ野球きってのスーパースター・新庄剛志ら、大物選手の引退が相次ぐ年となった。新庄などは、満員の札幌ドームで、派手な演出で引退セレモニーを行った。しかし、そんな彼らの陰に隠れて、ひっそりと引退していくプロスポーツ選手は、今年に限らず毎年、居る。
そんな脇役選手の「引退セレモニー」として、今年の新庄剛志のものと比べても決して遜色のない、一部のプロ野球ファンの記憶から未だに離れないものが、かつてあった。元広島東洋カープ、今井譲二選手のそれだ。
1979年に広島に入団した今井は、1989年に引退するまで、わずか5本の安打しか打っていない。その一方で、263試合に出場し、62盗塁、83得点という、実に素晴らしい数字を残している。機動力赤ヘルの80年代を支えた、「代走のスペシャリスト」だ。
現役時代には、自宅に相手投手のビデオが山のように積まれ、徹底的に分析を繰り返していた。投手ごとに、牽制が来るタイミング、牽制を投げる前に肩が動くクセ、全てを完璧に把握していた。だから、スタートはほとんど初球に切ることができた。
当然、試合終盤の競った場面で、相手バッテリーの警戒の中起用された。だが、全ての代走機会を含めた263試合で、4試合に1回のペースで盗塁を決め、3試合に1回のペースでホームを踏んでいる。これほど尊敬すべき足のプロフェッショナルは、もう出ないのではないか。
当時の広島市民球場では、「ピンチランナー、今井」のアナウンスが流れると、いつも本当に大きな歓声が起こっていた。もちろん、彼が出てくるときは決してピンチなどではなく、大チャンスのことが多かったからだ。
最近のプロ野球で代走と言えば、俊足で守備固めの役も担った若い選手が務めることが多いが、今井は生涯「プロの代走」だった。失敗しても、バッティングや守備で挽回できるものではなかったのだ。二次的な仕事ではない、まさに走りの「職人」だった。当時の或るプロ野球関係の書籍で、「今井譲二、守備位置・代走」と紹介されるほどの選手だった。
若いとき、自分が決めた二盗が決勝点に結びついたゲームで、「勝つにはこういう野球もあるのだな、とその時に思った」ことが、彼の野球人生を決めたのだそうだ。投手を細かく繋ぐため、ベンチ入りの野手を削る必要もある最近のプロ野球では、今井のような選手はもう出てこないかも知れない。
そんな彼の「引退セレモニー」は、引退を表明した1989年、広島市民球場でのラストゲームの終了後だった。
試合後、誰も居なくなったグラウンド。真面目で目立ちたがらない今井は、長内、西田、長嶋といったチームメイト達に引っ張られ、バッターボックスに立った。そして、彼らに促され、無人のダイヤモンドを全力疾走で一周するパフォーマンスを見せた。
スタンドに残っていた、彼を愛してやまなかった広島ファンは、「今井、今井」の大コールで彼の走りを後押しした。サードベースを回ると、最後はヘッドスライディングでホームイン。ホームベースの周りで待っていた広島ナイン達は、皆そろって腕を大きく横に広げ、「セーフ」のポーズで彼のラストランを祝福した。
起き上がった今井が見せた照れたような笑顔は、未だ忘れ難い。走塁コーチなどプロ野球界に残ることなく、彼は実家のある熊本に帰っていった。
野球は、選手の「駒」を上手く使うことが勝敗を分ける戦略スポーツの一面がある。この今井はもちろんのこと、「代打の神様、八木」といったような「切り札」があるチームの野球は、実に面白い。
ずっと中日ファンである私にとっては、1988年にセ・リーグ制覇したときの「代打の切り札」、小松崎善久は、当時の頼れる脇役選手として1番記憶に残っている(高打率をマークしたのは実はこの年だけだったのだが・・・)。
さて、今年の日本シリーズでは、どんな「切り札」が勝負を決めてくれるのか――。
▽いまい・じょうじ
鎮西高→中央大→広島(79〜89)
263試合 27打数5安打 0本塁打 4打点 62盗塁 83得点 打率.185
中央大在学中に、広島のテストと知らずに入団テストを受けてしまったというのも、有名なエピソード。そして、チーム随一の強肩の持ち主でもあった。
稲見純也 JunYa Inami
<4年前に当サイトで公開していた文章に加筆したものです>
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