誤解されているように思われるのだが、フィギュアスケート競技の「イナバウアー」は、体を後ろに反らすスプレッドイーグル(つま先を左右に開き横方向に滑る技)を指すものではない。
簡単に言うと、スプレッドイーグルのうち、両足を前後にも開いて滑る変形技をイナバウアーと呼ぶのだ。トリノ冬季五輪で荒川静香は、そのイナバウアーに、上体を大きく後ろに反らす華麗なオプションを付けたわけである。
したがって、足を前後に開かずに、ただ上体を後ろに反らして「イナバウアー!」と叫んで遊んでいる子供たちは、実は間違っていると言えよう。
ところで、その「イナバウアー」という技の名前を、アサヒビールが商標として出願し、特許庁に拒絶されたのだという。
ご存知のとおり、この技の名前は、開発した旧西ドイツのフィギュアスケーター、イナ・バウアーという人名に由来している。「他人の名前を含む商標は登録できない」とする商標法第4条1項8号の規定に、完璧にヒットしたわけだ。また特許庁の見解としては、フリーライド(ただのり)が意図されているとも考えられ、同第4条1項7号に規定する公序良俗違反にも該当するとしている。
なお、これらの規定は「商標として登録できない」と言っているだけで、「商品名として使ってはいけない」と言っているワケではない。ただ、商標として登録できないと、せっかく商品を開発して名前をつけても、他社の劣悪な商品にも同じ名前をつけられ、開発が無駄になってしまうなどの問題がある。また、特許庁が公序良俗違反という見解を出している以上、商品名に使用すると不正競争防止法などで処罰されるリスクもある。
いずれにしても、そう簡単にフリーライドできるほど、世の中は甘くない。「イナバウアー」は、まともな商品の名前には事実上使えないと見てよい。
「イナバウアー」を商標として独占的に使用しようと企んだ企業は、アサヒビールだけではない。荒川静香がトリノ五輪で金メダルを獲った後、以下のような企業や個人から「イナバウアー」という商標が出願されている。もちろん、全て拒絶だろうが…。
◆(株)フジモト・コーポレーション(薬剤やガーゼなどの商品名として)
◆(株)メガネセンター(眼鏡の商品名として)
◆吉峰貴司氏(写真器具などの商品名として)
◆(株)アトランティス(日本酒や洋酒などの商品名として)
◆(株)ダイヤモンドヘッド(貴金属や時計などの商品名として)
◆アサヒビール(株)(日本酒や洋酒などの商品名として)
…荒川静香の美しいレイバックにあやかって、腰痛に効く薬「イナバウアー」、フレームが反りまくるメガネ「イナバウアー」、本場ドイツの味「イナバウアー・ビール」などなど、くだらないが案外に楽しいかも知れない。だが決して、笑っている場合ではない。
企業の商標担当部署と言えば、商標法の規定などを熟知したプロの集団である。アサヒビールのような大企業なら、なおさらだ。そんな彼らが、フリーライドを厳しく禁止している商標法や不正競争防止法の精神を知りながら、「イナバウアー」という商品名を独占的に権利化しようとしたその性根には、全く呆れるほかにない。
そんな企業や個人による「イナバウアー」の商標出願が、特許庁によれば、なんと既に13件もあるのだと言う(全て拒絶予定)。調べてみると、アサヒビールにいたっては、「イナバウアー」の出願と同日に、「ビールマンスピン」という商標までも出願している(ビールつながりか?)。
スポーツ選手の技の名前は、一見すると人名ではなかったりする。もちろん、他者の商品名でもない。そこに目をつけ独占的な権利化を目論んだアサヒビールらを、「商魂逞しい」と評する向きもあるかも知れない。
しかし、スポーツ選手の尊敬すべきパフォーマンスに「ただのり」しようという行為は、「写ルンです」や「i-mode」といった、独自の素晴らしいネーミングで優れた商品を世に出す行為とは、全く対照的な悪質な行為なのだ。そのことが広く理解されることを、望むばかりである。
数年前、「阪神優勝」という商標を、阪神球団と無関係の個人が登録していて、話題となったことは記憶に新しい。たしかに「阪神」は地域名でもあるが、「優勝」という文字と組み合わせられ、黄色と黒のタイガースカラーの背景にあしらわれたこの商標を、あっさり登録してしまった特許庁も特許庁である。もちろん、この商標登録は無効となった(※無効とは、初めから登録されなかったことにされたという意味である)。
そんな特許庁だから、鐘紡から出願された「トリプルアクセル」という商標を、実は登録してしまっている。「アクセル(Axel)」は、加速するという意味の英語ではなく(この意味でのアクセルは和製英語だから当然だが)、このジャンプを開発した人の名前である。しかもこの登録商標、「Accel」ではなく「Axel」という英字表記までご丁寧についている。
「阪神優勝」すら拒絶できない特許庁に、商標「トリプルアクセル」の拒絶を期待することは、さすがに酷なのか。「ビールマンスピン」はなんとか拒絶できたようだが…。
稲見純也 JunYa Inami
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