2007 / 07 / 30
  続・サッカーを支配する「結果論」

回、「サッカーを支配する結果論」を書いた。そして、やはりまた、アジアカップ準決勝・サウジアラビア戦で敗退した途端に、結論を急ぐ傾向が見て取れた。結果論もここまでくると、拍手を送りたいほどの見事さだ。

準々決勝、初めての酷暑に足が止まり、終盤は10人で守りに徹さざるを得なかったオーストラリア。そんな相手に対して、ボールを多く支配してパスを繋げたという当たり前のことをもってして、「オシムサッカーが花開いた」とさえ多くが結論付けたのも、因縁の相手に最終的に勝てたという「結果」がそうさせた面が大きかろう。

それが、そんな油断もおおいに手伝ったであろうサウジアラビア戦で、1点差で敗戦した途端、W杯の雪辱を晴らして喜んでいたはずのワイドショーやサッカー解説者から、「オシム解任論」が噴出。もし、羽生のショットがクロスバーの下に跳ね返っていたら…日本の報道は全く違っていたはずだ。

ず、サウジアラビアに負けた途端に、「シュートを打たないから負けたのだ」と言う声が、待ってましたとばかりに噴出したのも、少し変だ。

オーストラリア戦では、「シュートを打たない」という批判は殆ど無かった。無論、結果的に(PK戦であっても)勝ったからだろう。もちろん、シュートの「数」は多かった。オーストラリア戦では、ロスタイムも算入すると、延長含めて約125分で日本は15本のシュートを打った。支配率は62%だったから、ボールを持っている間は、1分当たり0.19本打った計算になる。

だが、シュートが足りなかったと誰もが指摘したサウジアラビア戦では、本当にオーストラリア戦に比べてシュートが少なかったのか。ロスタイム含めて約96分間、支配率59%でシュートを9本打っている。1分当たり、0.16本。実は、オーストラリア戦とそれほど変わらないのである。

もちろん、後者がリードされていたゲームだったことは考慮すべきだが、前者も数的優位の状況でPK戦突入前に絶対に決めるべき展開だったことは、勘案されるべきである。しかも、オーストラリア戦よりも、サウジアラビア戦のほうが実際に点を取っている。負けたからと言って、サウジアラビア戦の後になって「シュートが足りない」と言い始めるなんて、典型的な「サッカーを支配する結果論」と言える。

そもそも、シュートを打つことはもちろん大事なことであるにしても、何でもかんでも「シュートで終われ」とばかり連呼するのは、そろそろ卒業してはどうか。良いミドルを打つ選手もいないのに、安易にポゼッションを譲り渡す下手なシュートを数打つより、決定機をひたすら狙うサッカーも、スタイルとして尊重すべきだろう。送りバントを積み重ねるチームは、守備側は怖いし疲れるのだ。

はいえ、こうやって結果論を語り合うことこそがサッカーの楽しみとも言えるのだから、結果論は歓迎すべきと言えるのかも知れない。勝てば次を議論する余地があり、負ければ(基本的には)次がないのだから、負けたときに結果論を議論せざるを得ないことも、仕方がないことだ。

であるから、あとは、「メディアはサッカーの勉強が足りない」と言わんばかりのオシム監督が、日本メディアへの対応を勉強してくれれば、とりあえず言うことはない。Jリーグの過密日程や、ディフェンディングチャンピオンとしてマークされたこと、インドネシアでの移動と宿泊のトラブルなど、他国に比したハンデも抱えながらアジアのベスト4だ、解任を急ぐ理由はない。

だからこそ、「そんな質問をされてガッカリだ」などと記者の質問にキレたり、言い訳や負け惜しみばかりではなく、日本サッカーの「顔」としての振る舞いを改善して欲しいのだ。日本は、少数の中央キー局がスポーツマスコミの実権を握るメディア体制の国。一選手ならともかく、A代表の監督が彼らを本気で怒らせてしまうと、日本でのサッカーの露出度に直接的に影響し、それがアジアカップでの敗戦なんかよりよっぽど日本サッカーの将来に影響するかも知れないのだから。

監督が大人になれないと分かったとき、それが解任すべきタイミングとなるだろう。少なくともいまは、苦しい環境の中でもがきながらも、マスコミに対して誠実な対応をしている選手達のほうが、監督よりも百倍大人である。

    稲見純也 JunYa Inami


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