2007 / 08 / 06
  朝青龍に対する処分は、重すぎる

病」疑惑が取り沙汰された横綱・朝青龍が、日本相撲協会から2場所の出場停止、4ヶ月の減俸と謹慎といった処分を受けた。世間の声も厳しい。「こんな処分では甘すぎる」という声も多いようだ。だが、相撲協会が下したこの処分、甘すぎるどころか、重すぎる。

なぜなら、伊勢ノ海理事がハッキリと言ったように、相撲協会は四日市市内の病院が出した「全治6週間」という診断書の正当性を、認めているからだ。世間は「仮病で巡業を休んだ」と思っているから、「処分が甘い」と言っているのだ。仮病ではないことを前提としている、いや、それを追求することを放棄した相撲協会が下した処分としては、2場所の出場停止はあまりに重すぎる。

考えてもみて欲しい。厳しく禁じられているのに自動車を運転し、事故を起こして人に怪我をさせた旭天鵬が、1場所の出場停止だ。全治6週間の体で、モンゴルと日本の国交35周年記念チャリティーイベントに出席し、請われて急遽怪我をおしてサッカーをプレイした朝青龍が、2場所もの出場停止+αである。あまりにも不平等だ。

れはともかくとしても、だ。思うに朝青龍は、世間に全く正当に評価されていない。稽古をサボるとか、モンゴルに頻繁に帰るとか、そういった話題ばかりが目立っているが、肝心なことが忘れられている。

朝青龍は、3年間半も横綱を張り、その殆どの間ひとり横綱として、圧倒的な強さを維持してきた。21回の優勝のなかには、史上最多の7連覇も含まれている。他の力士と比べものにならない厳しい稽古や、猛烈な量のトレーニング、さらには対戦力士の入念な研究などがなければ、決して実現できるものではない。朝青龍は、サボってばかりいるワケでもないし、酒を飲んで暴れてばかりいるワケでもないのだ。それを、まず考えて欲しい。

「横綱は神に相当する地位なのだから」と品格を求める声も、勝手な物言いだ。神に相当する地位だと言うひと達は、その神様に手を合わせたことが、一度でもあるのだろうか? 神社に一度も足を運ばない人間が、その神社の神様に「ちゃんと働け」と苦言を呈する資格などあるまい。普段から横綱をワイドショーのネタ扱いしておきながら、都合の良いときだけ「神様」扱いするなんて、完全なるイジメである。

青龍なんて引退しても良い」と主張するひとも居るが、普段大相撲を観ていないひとが多いのではないか。彼のパワーとスピード、右からの投げの切れ味、足技を交えた多彩な技、巻き替えの速さ、そして気迫は、かの千代の富士以来のものだ。いや、力士の大型化が進んだ今、小柄な横綱としてその価値は千代の富士のそれより高い。相撲ファンが、そんな宝を簡単に手放しても良いと断ずるなんて、私には信じられない。

「彼に匹敵する日本人力士も登場して欲しいですねー」などと常に言われてきた。モンゴル人であるというだけで、品格だの何だのを評価される上で、彼は明らかに大きなハンデを背負っている。憎たらしいほど強い朝青龍だが、その憎たらしさが余って「引退しろ」となってしまうなんて、それこそ「国技」の名が廃る。

大相撲は、もともと興行である。伝統だの、国技だのという言葉に縛られるより、もっと時代にあったスポーツ興行としての性格を大相撲に与えるべきときではないだろうか。「品格」を備えていない力士は幾ら強くても横綱に昇進させないようにする、などと規定を変更することを真剣に検討しているようだが、とんでもない話だ。圧倒的に強い力士が大関にとどまり、「良い子ちゃん」ばかりが横綱に上がるようでは、横綱の価値が下がるだけである。

綱の品格がどうこう言う話なんかより、稽古中の突然死の事故(事件)など、よっぽど真剣に考えなくてはならない問題だって、他に幾らでもある。それを、朝青龍の「サッカー問題」程度の話でうやむやにしてはいけない。

今回の件を含め、いろいろな問題が明るみになっている大相撲は、いまが舵を切るチャンスだと思う。いや、舵を切る必要があるのだ。「品格」のある横綱だけでなく、朝青龍ほどの「風格」のある横綱を、今後も見続けるために。

    稲見純也 JunYa Inami


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