野球日本代表は、11月27日から始まる北京五輪アジア予選を迎える。そんな大事な短期決戦のゲーム、それも代表戦ともなると、普段はブンブン振り回す強打者が送りバントをしたりする場面に遭遇する。そうすると、メディアや解説者が大騒ぎだ。「素晴らしい自己犠牲の精神だ!」と。
’04年のアテネ五輪で、日本代表の中村紀洋(現・中日)が自身5年ぶりとなる送りバントをしたときも、やっぱり解説者が大興奮。「こんな必死な自己犠牲のプレーは、レギュラーシーズンでは見られませんよ!!」
レギュラーシーズンも必死にやれよ、とツッコミたくなったのは言うまでもないが、そもそも、送りバントを「自己犠牲行為」などと賞賛するなんて、変な話だ。自分がやりたいプレーを我慢して、チームのために別のプレーを選択することは、チームスポーツにおいては「犠牲」でもなんでもないからだ。
シュートを我慢して、ラストパスを出す。スパイクを我慢して、エースにトスを上げる。そんなことを自己犠牲としていちいち絶賛するだろうか?
送りバントは、別名「犠牲バント」。英語の「サクリファイス・バント」の直訳だが、「犠」も「牲」も「いけにえ」という意味の漢字だし、日本ではアウトを「死」と訳しているから、いかにも自分の命を犠牲にしているような印象を与える。
だが、「サクリファイス」という英単語は、元々ラテン語の「神聖にする」という意味に過ぎない。「仕事のために遊びを我慢する」といった軽い意味でも使う英単語だから、「誰かの命を犠牲にして」というより、「アウトひとつと引き換えに」という軽い意味にとれる。そんなところにも、送りバントをことさら賞賛しないアメリカとの差があるかもしれない。
では、チームスポーツにおいて、自己犠牲と呼べるプレーがあるとしたら、何だろう。サッカーなら、相手を引き付けるため縦横無尽に走り回る献身的な動き。バレーボールなら、おとりとしてスパイクを打つフリをする跳躍。「犠打数」といった記録にすら残らないのに、自らの体力を消耗させるこういったプレーなら、自己犠牲とも言えようものだ。
1908年、メジャーリーグ。或るゲームで、タイガースが走者二・三塁の局面を迎えた。ここで二塁走者のジャーマニー・シェーファー選手が、なんとわざわざ二塁から一塁に全力で逆走。一・三塁とした後、次の投球で今度は二塁へ全力疾走。捕手が二塁に送球したスキに、三塁走者が生還したのである。
自ら勝ち取った二塁を放棄してダッシュで一塁に戻り、さらには「おとり」となって点をもぎ取る。これを瞬時にひらめいて実現したこのプレーなら、野球における自己犠牲の好例と言ってよいかも知れない。
これから始まる日本シリーズや北京五輪アジア予選では、一流スラッガーのバントに「自己犠牲だ!」などと騒がず、本当の意味での献身的なプレーを探してみるのも、悪くない。
稲見純也 JunYa Inami
<この記事は、10月23日発売『週刊漫画サンデー』に掲載されたものです>
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