2008 / 04 / 17
  聖火リレーをボイコットすることが「気骨のある」ことなのか

京五輪の聖火リレー。妨害行為により、世界各地で混乱している様子が、毎日のように報道されている。4月26日には日本の長野にやってくることもあって、国内での報道もますます増えている。暴力的な聖火リレーの妨害に異を唱える者もいれば、聖火リレーそのものの存在意義に異を唱える者もいる。

後者の例では先日、スポーツジャーナリストの二宮清純氏が、以下のような意見を発表した。

 「誰のため? 聖火リレー」
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/080416/acd0804160252004-n1.htm

このなかで彼は、「聖火リレーは行き過ぎた商業化」と主張し、「中国政府のチベット弾圧に抗議するためにボイコットする気骨ある日本人ランナーはいないのか。無事、大役が果たせてホッとしていますなんて言われた日には目もあてられない」 などと、いかにも「聖火リレーなんてボイコットしろ」と言わんばかりの厳しい論調を披露している。

しかし、私は思うのだ。たとえ中国政府に抗議したい気持ちがあるとしても、聖火リレーをボイコットすることが、本当に「気骨のある」ことなのだろうか、と。

の一連の問題で考えるべきことのひとつに、スポーツ(もっといえば五輪)と政治を分離して考えるべきではないか、という点がある。私はスポーツが大好きだ。アスリート達も非常に尊敬しているし、五輪選手やスタッフ達も心から応援したい。だからこそ私は、五輪や聖火リレーを、中国政府に抗議する場として利用して欲しくないのである。

もちろん、北京五輪やその聖火リレーを、中国政府が「国威発揚」のために利用していることを、否定するつもりはないのだ。だが、そうしたイベントに参加する日本や各国の選手やスタッフ達には、罪は何もない。本当に心からチベット問題やダルフール問題を憂慮しているのであれば、私はスポーツファンとして、スポーツイベント以外の場で抗議行動に出てして欲しいとこそ思う。

そう思うからこそ、二宮清純氏のような立場の人間が、「聖火リレーをボイコットすることこそ気骨のあることだ」と断定的に言ってしまうことは、(もちろんひとつの考え方としてに尊重すべきだとは思うが)残念でならないのだ。

聖火を運ぼうという日本人ランナー達は、スポーツを愛するひと達であるに違いない。ならば、聖火リレーをボイコットするのではなく、たとえば

「中国政府の態度には抗議したい。だが、五輪というスポーツの祭典を彩る聖火リレーは、政治問題とは関係ない」

と声を大にして聖火を運ぶことこそ、尊敬すべき「勇気」であり、賞賛すべき「気骨」ではあるまいか。

論、スポーツと政治問題や人権問題を完全に切り離すことなんて、いまや不可能だろう。しかし、ランナーたちは皆きっと、純粋にスポーツを愛し、世界平和を願い、五輪というイベントに貢献しようと、身に迫る危険を感じながらも聖火リレーに挑むのだ。

危険があるのだから無理に聖火リレーなど行うべきではない、と論陣を張るのならわかる。危険だから無理に参加しなくてもいいのですよ、とランナーに助言するのなら大いに理解もできる。だが、彼らランナー達が「大役を果たせてホッとしています」と言ったら「目も当てられない」とは、ジャーナリストとして何事だと思う。

私自身も、聖火リレーを行うことに拘るべきではないと、思ってはいるのである。だが、聖火リレーに参加するランナー達を否定することだけは、したくない。もし彼らが、聖火を運ぶという大役を果たした後に「ホッとしています」と言ったとしたなら、私は心から「ご苦労さまでした」と拍手を送り、彼らの「気骨」を称えたい。

    稲見純也 JunYa Inami


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